第84回: オリジナル粉末茶「もて茶って」を世界へ!/お茶の田村

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本日のゲストは、お茶の田村、代表 田村賢次さんです。田村さんに、事業内容や起業に至るストーリーを伺いました。

 

 

オリジナル粉末茶「もて茶って」

松本:現在どういったお仕事をされているのか自己紹介をお願いしてもよろしいでしょうか?

田村:現在は既存のお客様ができましたので、そのお客様とのコミュニケーションを図って、あとはそのなかに新しい商品をご提案して、PB商品をプライベートブランドを作って発信しております。

 

松本:内容はお茶ですね?PBを販売していると?

田村:それはお客さんのPB、今までは小売業ですからお茶を仕入れてブレンドして販売していたんですが、それではやっていけない時代になりましたので、今はメーカーになって、仕入れたものを付加価値を付けて、ブランド商標を作って発売しています。

 

松本:名前はあるんですか?

田村:「もて茶って」、弊社では「もて茶って」というのを商標登録を取っていて、来年で10年になり、3種類取っているんです。商標登録。「もて茶」、「もて茶って」、「もて茶って割り」、焼酎で割って飲んでいただきたい。そういう商標ですね。

居酒屋さんで女の子が「今日、私、もて茶って割りでお願いします」と使っていただくための商標を取っております。

 

松本:「もて茶って」と小さい「つ」が入るのは?

田村:それは鳥取の農家の友人がいるんですが、スカイプで話をしていたときに、ケンちゃん、このお茶って、モテちゃったらいいんじゃない?とアドバイスもらって、モテたは過去形だからつまらないから、モテちゃってにしようと、あなたも私もモテちゃってという感じの、

 

松本:コンセプトとしてはモテるも入っている?

田村:入っていますし、インパクトがあるじゃないですか。もて茶って、って、

 

ネーミングのインパクトが重要

松本:インパクト重視?

田村:数年前にニューヨークで展示会をやったときに、これは全国商業連合組合というところ、国で招待していただいた展示会なんですけど、そこで大手のドリンクメーカーのニューヨークの所長さんも来られて、「もて茶って」というネーミングが素晴らしいと、うちの社長が好きそうだと、御社の社長さんに1億円でネーミング売ってあげると提案したら笑っていましたけど、

 

松本:ネーミングは大事ですね。

田村:大事だと思います。

 

松本:内容の特徴はありますか?

田村:これはそれぞれの企業秘密的なブレンドがありますので、ちゃんとして成分分析もちゃんとして、微生物検査センターにもちゃんと出して、小さいながらも一通りの企業登録、JANコードもちゃんと登録しているし、うちのお茶を飲んでお腹を壊したとか怪我したとか、そういうPL法の保険もちゃんと完備しておりますので、

 

住宅街にある小さなお茶屋さん

松本:今はそれを販売されて10年くらいで、お茶屋さんはどのくらい?

田村:45年になります。

 

松本:お店の場所はどこら辺ですか?

田村:埼玉県蓮田市です。都心から電車で、上野から40分弱です。駅から5分くらい。

 

松本:誰もが見たことある?街中にある?小さなお茶屋さん?人通りは?

田村:小さなお茶屋さんです。前はありました。線路の反対側にスーパーさんがありましたので、ただそのスーパーさんがクローズして、今は新しい道路もできたので、通勤通学道路になりまして、

 

松本:ターゲットの人は寄っていくことは?

田村:お茶を買いにわざわざ来るというお客様ですね。

 

営業先を工夫して売り上げアップ?

松本:そんななかで年商はどのくらい?

田村:ご来店のお客様は1点単価は低いですから、買って何百円とか何千円とか、まとまって買うお客様もそれでも1万円ですから、1万円のお客様が30人も来ないか、昔はありましたけど、今はご来店は1人か2人です。下手すれば来ないときも、

ですから売上の集計は何日かに一度です。お客さんが少ない状態です。インターネット販売が多いです。年商は5,000万円ぐらいです。

もっとこれからはもちろん海外にも納めているので、海外のほうがまとまってくればいいんですけど、まだ試作段階だからそんなに数字も上がってこないし、

 

松本:街のお茶屋さんで年商5,000いっているのは?

田村:昔からの大手のところはあるんじゃないですか?

 

松本:1人2人の従業員で人通りが少なくて、ほぼ誰も入っていないんじゃないかなというお茶屋さんで、

田村:今、お客さんが日本全国の回転寿司屋さんに納めさせていただいていて、これがお客様を獲得していますので、ファックスで黙っていても注文が入ってくるので、

 

松本:営業先を工夫していると?

田村:ご来店のお客様はあてにしていないです。会社経営と同じで土日は休みにしていますし、開けていても来ないんじゃ、もっと他にやる仕事があるものですから、

 

松本:ではそういった経緯も含めて、今までのストーリーを脱サラ前からお伺いしていきたいんですけど、脱サラされたのは40年前?

田村:私が27のときですから、42、3年です。

 

松本:27の前は何をやられて?

田村:会計事務所で税金の仕事をしていました。人の懐を計算する仕事ですね。

 

松本:大卒で?

田村:高卒。大卒と言うより私は夜間高校ですから、貧乏人のせがれでしたから、仕事1本で真面目に、朝5時に起きて職場に行って、そこは大きな酒問屋なんですけど、足立営業所というところで在庫管理の仕事をしていまして。それはなぜかと言うと、家が貧乏だったものですから、早くお金を稼ぎたいということで中学校のときの就職の募集のなかで給料が一番高かったんです。

 

松本:どのくらい貧乏だったんですか?

田村:生活保護世帯でしたから、だから私が働くから生活保護はお断りして、給料は全部母親に渡して、母の喜ぶ顔を見てやっていました。

 

松本:できるだけ給料がいいところに?

田村:そこでそこの問屋に入って、中卒じゃ結構いい給料だったんですね。朝5時起きで6時から品物が出荷する前に倉庫を全部開けて、在庫チェックですね。朝と夕方と二度チェックするんです。それで1、2年働いていたときに、そこの副社長が「田村君は一番早く出勤しているのに早出出勤していないじゃないか。タイムカードが」と呼ばれまして、賞与のときに副社長さんから別にこれは僕からだからと別にお手当いただいたというのが嬉しかったです。

それで高校卒業して、大日本印刷の経理に入ったんです。もともと商業高校だったので簿記とかそろばんとか得意だったので、大日本印刷を募集していて厳しいチェックをクリアして入ったんです。大日本印刷の神楽坂工場で原価計算という仕事をやっていたんですが、あまりにも単純な仕事で嫌になったんですね。

 

松本:単純作業が?

田村:電卓で計算するだけなんです。そんなことを毎日、それも残業で1カ月100時間残業ですから、その当時の大日本印刷さんは残業で稼げということで、だからお給料を貰って、1日か2日くらいです。定時で帰れるのは。あとはほとんど終電で泊まり込みとか、自分の人生こんなんじゃないと思って、それで6カ月くらい働いていたら、近所の会計事務所で職員募集とあって、それでそこの会計事務所へ行ったんです。

 

泥棒に入られバックごと給与が盗まれる?

松本:半年で短い期間で辞めるのは抵抗は?

田村:もともと父親がサラリーマンではなかったので、そういう環境もあると思います。独立心旺盛だったものですから、それで今考えれば、ずっと勤めていれば楽だったんじゃないかと思いますけど、とても自分には無理だと思いました。そこの会計事務所さんで勤めて、会計事務所も何社も渡り歩きましたけど、会計事務所の先生との相性もありますし、何だこの人?というのも多かったものですから、最後にお世話になったのは渋谷の太田会計事務所の先生なんですけど、いい先生でした。面倒見もいいし、結婚したばかりのときに泥棒にお金を取られたんです。

家内がバッグを二階建ての貸家にいたんですが、下のところ、夏場で網戸のままでテーブルの上にバッグを置いておいたら、ガタンと音がしたときに、ガタンと音したよと、我々は二階にいたんですが、そのとき取られたんです。給料。バッグごと。そしたら会計事務所の先生が給料ないと困るだろうと、また給料いただいたんです。

 

松本:前借じゃなくて?

田村:じゃなくて、そういう先生で本当にいい先生だったんです。

 

松本:貸してくれるとかではなく?

田村:ではなくて、給料を2回くださったんです。新婚で給料がないと困るだろうって、ですからそれで私が会計事務所でずっとお世話になっていて辞めて、辞めるきっかけというのはよく会計事務所にお茶屋さんが営業に来ていたんです。

お茶のマルコウですけどお茶いかがですけど?お茶のナガミネエンですけどいかがですか?と、お茶屋さんは儲かるのかな?と思いまして、そしたらたまたま母が築地のうおがし銘茶さんというところへいつもお茶を買いに行っていたんです。美味しいからって、じゃあ自分も何かビジネスやるならお茶屋さんがいいかなと思いまして、

 

松本:お父様は?

田村:鳶の仕事です。

 

松本:自分も将来的には独立したいというのは?

田村:ありました。何かやりたいと、何だかんだ言っているうちにこんな歳になりましたけど、会計事務所の先生との出会いですね。辞めるときも私は嫌で辞めるのではなくて、自分で独立したいという、

 

松本:そのときはお茶屋さんでやっていこうと?

田村:そのときもその先生が、失業保険はその当時その事務所では入れていなくて、私が辞めることによって、失業保険を貰えるようにしてやらなくちゃとなって、みんな遡って入ってくださって、1年間遡って入ってくれて、それで私が独立したときに先生が失業保険を貰いながらやりなと、そういういい先生だったんです。

 

松本:いい人との巡り合わせて、

田村:そう。その先生もお亡くなりになって、大正9年9月29日生まれで、9月29日に私はいつもお電話させていただいていたんですね。いい先生で、亡くなったと聞いたときに涙流しました。そういう出会いがありました。

 

長女をおぶって訪問販売からスタート?

松本:その当時はお茶屋さんというのは全国的には?

田村:いろいろ私も初めての業種ですから、それでお茶屋って、じゃあ築地のお茶屋さんのお茶が美味しいと言うんだったら、そこへ電話を入れまして、農大の学生連ですけど、今、西洋のお茶と東洋のお茶の論文を書いているんですけど、御社のお茶がとても評判がいいんですが、どちらの産地のお茶ですか?と聞いたら、静岡ですと答えていただいたから、その当時電話帳が電話ボックスが上野駅にあって、そこに全国の電話帳があって、それで静岡のお茶屋さんに片っ端から電話をして、うおがしさんというところへ納めていますか?と、それで見つけたんです。静岡県の島田、そこを見つけて、そこへすぐ行きまして、その当時、私の母と一緒に静岡の島田まで行きまして、こういうお茶を販売させてくださいと、それがきっかけです。100グラム、販売価格500円、1本、それを仕入れて袋詰めして訪問販売です。当時はお店は持っていない。訪問販売です。

 

松本:まず最初訪問販売から?

田村:そうです。歩いて訪問販売です。

 

松本:奥さまと?

田村:そうです。その当時、家内が長女をおぶって、2番目の子がお腹に入って、そのときにお腹が大きい女性が訪問販売に来ると可哀想だなと思って、皆さん同情してお客さんになっていただいて、随分買っていただきました。

 

松本:それは何と言って販売するんですか?

田村:お茶の田村ですけど、お茶はいかがですか?

 

松本:お茶の訪問販売って、今はあるんですか?

田村:あります。地方へ行けばあると思います。ただ今はそもそも訪問販売自体が非常に厳しいですから、私なんか埼玉から東京、実家の東京のほうまで来て、そこから自転車で足立のほうをずっと訪問販売して、それから何カ月かしているうちに中古の自動車を買って、販売を広げて、埼玉県の草加とか八潮とか美里とか吉川とか千葉の流山とか、そちらのほうまで販売、

 

松本:最初の資金はどうされたんですか?お金は貯めていた?

田村:ゼロです。資金はないです。

 

松本:訪問販売で食べていけた?

田村:食べていましたね。一番初めの資金というのは足立区の何とか資金というのがあったんです。制度融資で、それを実家の前のおじさんに保証人になってもらって50万円借りたというのはあります。

 

松本:じゃあ最初の資金というのはそれ?

田村:そうですね。

 

松本:でも2人で訪問販売だと限界というか、売上も限界あるじゃないですか。そこからどうやって?

田村:訪問販売をやって、それからたまたま私が会計事務所で働いていたときのお客さんの社長さん、不動産屋さんをやっていたんですね。その当時、北本の公団住宅に住んでいたんです。北本から東京の足立のほうに行くのに車で通ったときに蓮田を通ったんです。そしたらたまたま蓮田に賃貸物件をやっているから、それじゃそこで仮店舗をやろうと、そこでお店を出したんです。38年くらい前。

 

松本:それは脱サラして何年後くらいですか?

田村:6年かな。

 

松本:6、7年はずっと訪問販売?6、7年、ずっと訪問販売をやるって、

田村:きついですね。もっと早かったかな?そんなに訪問販売していなかったかな。お店持ってからは、スーパーの店頭販売やったりとか、訪問販売やっていなくて、ご来店のお客様を家内が待っていて、私がスーパーの店頭販売で朝早く店先でやって、お茶と急須とか茶碗とか、それが結構楽しかったです。冬は寒いんです。外ですから、スーパーの入り口で、お馴染みさんが来ると、お茶飲ませてと言って、お茶を飲ませて、お菓子持ってきたり、漬物持ってきたり、そういう顔馴染みができるんですね。

 

松本:常連客がどんどん?

田村:そうですね。

 

松本:それはだいたいどれくらい?

田村:仮店舗が6年くらい、それから今の場所、仮店舗の線路の反対側に土地が売っているから、それでご近所のいい方がいらっしゃって、その方が我々のことを心配してくださって、あそこの家賃払っているんじゃ大変だから、あそこへ土地があるんだったら、そっちを買ったらどう?と提案してくださった。でも買うったって、お金は50万円くらいしかないしと言ったら、頭金は私が1年間貸すからあれしなさいと、1年間頭金を貸してくれたんです。

 

恩は着せてはいけません、着させていただくもの

松本:人に恵まれていますね。

田村:助けられています。今もその方は93歳で生かされていますので、昨日も亀次のどら焼き買ってきたから食べてと届けさせていただいていましたけど、その方がイイノタエコさんという絵の先生だったんですが、美術の、イイノタエコさん、ママコ先生というネーミンなんですけど、私のとっては師匠なんです。言葉使いとモノの考え方、ほんとにいいことをたくさん教えていただいて、だからそのいわゆるママコトークを営業に使うと相手の気持ちがみんな私に動いてくださるんです。

例えば、恩は着せてはいけません、着させていただくものよと、させていただくという言葉は大切ということを教えていただいたり、嫌なことがあったら考えておきましょうと、考えておきますって、断っちゃ駄目と、考えるのは1年考えても100年考えるのも考えるんだと、そういうようないいことをたくさん教えていただいて、それを実行させていただいて、現在までたどり着いているんですけど、

 

松本:当時は3、40年前だと来店客もそれなりには?

田村:それなりにありました。新店舗を出したときはレジにお金が入らないくらいありました。すごかったです。

 

松本:でも年々時代が、

田村:それもそうですし、新しいもの好きの人も多いでしょうし、安いからと、ですから、1年の1回の安売りすると来ますね。でも馬鹿らしいですね。安いときだけ来て、普段買ってくださる方に提供したいのに、そういう方は来ないんです。安売りしたときはいつも来てくださる方は来なくて、全然来ない人が安いものだけ買っていって、それで包装してくれと何してくれと、そういうお客さんばかりでした。

 

お茶屋自体がやばい?閉店?

松本:時代とともにペットボトルが出てきたりして、衰退していくわけじゃないですか。そのなかでどういうふうに回復していったのか?

田村:回復するより、途中サラリーマンになりました。お茶屋さんやりながら、世田谷の不動産会社に入りまして、もともと経理ができるものですから財務のほうで銀行交渉で融資だとか、そういうのはできたものですから、たまたまお世話になったところがあって、世田谷の不動産会社に、

家内に任せて、私が外で給料を貰って稼ぎましょうと、子どもの教育もあるしローンもあるのでそのほうがいいだろうということで、給料は良かったんです。1カ月50万円で良かった。初め40万円だったんです。ちょっとあれだから辞めますと言ったら、辞めないでくれと、10万円アップするから辞めないでくれということで結構楽しかったです。4、5年いたのかな、でもその会社とんでもなかったんですけど、

 

借金地獄で、入ったら3億の借金です。入社した日に、「田村さん一緒に二子玉のみずほ銀行に一緒に行ってくれ」と、何だろうと思ったらリスケジュールの相談。私知らなかったんです。そしたら何だと思ったら、3億の借金が返せないと送らせてくれと、だからとその社長が自分で資金計画を作って、それで交渉しました。そんなものが一番初めです。

 

松本:それでよく50万円も出しますね。

田村:それはうまいことやっているんです。社長さんが言えないことですけど、今はその社長さんはそれから弁護士に全部依頼しちゃって、銀行さんが何も言えなくなっちゃいました。

 

松本:それをやったんですね。

田村:そう、弁護士さんと、そうすると私と弁護士さんとのやり取りで全部処理しまして、だから毎月払える分って、新銀行東京さんなんてひどかったです。1回しか貸さない。何千万もあったのに1回しか、あの当時は3日ですぐ融資したと言っていました。債券開始事業って、銀行の関連会社があって、いくらいくらで買ってくれないか?とか、いろいろ言ってきたみたいだけど、お金ないから返せないと、毎月1行について1万円ずつくらいしか払っていかなくて、それを2年くらいやっているうちに相手も諦めて先送りしてくれたところもあるし、最後は自己破産したんじゃないかな、社長は、だから借金で全然、命なんか落とすことはないですよと、そういう経験談の本を書きたいくらいです。教えてあげたい。

経営者って孤独ですから、お金がないからどうしようって、そんなので悩むことはないです。なきゃないんだから仕方ない。あるとき払いますと、実際お茶屋さんやっていて、お茶屋さんでもやっぱり静岡のお茶屋さんで一番初めの取引きで、買掛金が500万くらい貯まって、でもそれまでずっと面倒見ていてくれたんですが、さすがに向こうもお金払ってくれないと品物送れないと言われて、何だかんだ言って借金して現金でお金持っていって、申し訳ありませんでしたと、そしたら向こうもお茶のための姿勢をちゃんと信用を買っていただいて、それからそこの会社さんはお茶の田村さんすごいって、よく復活したと言っています。

それまでボロクソに言われましたけど、親父、何やっているの?って、サラリーマンやっていたことは内緒だったんです。旦那が働きに行っているのはまずいので内緒にしておきなさいと、お店は家内がやっていて、そうすると決まった給料が入るから支払いができるじゃないですか。そういうこともありました。あまりひどいもので、会社も社長が田村部長は会社が駄目になったら自殺すると言っているんです。ちょっと待てと、取締役2人しかいないのに自殺されたら、私が財務整理しなくちゃいけないと、冗談じゃないと、家族で話をして、こういう状態だから社会保険料1年間払えなくなっちゃったんですね。そこの会社で。ワンマン経営だから、それは当たり前だと思っていましたから、それですぐハローワークへ行って、ハローワークに行ったら、新橋の会社で82名応募があったなかで、私が採用されたんです。管理部長ということで、

 

60歳でタレント事務所に?

松本:強いですね。会計ができれば、

田村:そんなことはないです。だって流通なんてやったことないですから、物流なんてまったく分からなかったんです。何で品物がないのに売上があって、どういうふうになっているんだよって、全然わからなかったんです。分かるのは1年経ってやっとわかりました。誰も教えてくれませんから、そこでもお金を作ること、不動産会社のときの馴染みにしていた銀行の行員さんと仲良くしていたものですから、融資というので借りて、そういうような感じでやっていました。

それであまりにもそこの会社も1年いて、専務と営業部長も毎日新橋に夜な夜な遊び狂って、みんな交際費で落とすから、駄目だ、そんなことしていたら会社潰れると、もともと本社が札幌の会社だったんです。食肉の商社だったんです。札幌の社長にこんなことしていたら駄目ですよと言ったら、社長が「田村君、そんなに専務と営業部長を信用していないんだったら今すぐ辞めてくれ」と言われたんです。

でもそのときにお給料を貰う我慢料よと家内によく言われたものだから私は我慢したんです。ほんとだったらすぐ辞めると、2カ月くらい我慢したんですけど、どうしようもなかったんですね。ある朝、営業部長が来たときに本来の田村賢次って、こんなおとなしいものじゃないんですと、今まであなたたちがどんなことしているかというのも耐えられないと、こんな会社、今すぐ辞めるからと言って、啖呵をきったわけです。

そしたら向こうもびっくりしていまして、そしたら専務が来るのを待ってくれと、あんな専務だとすぐ喧嘩になるよと、会社の雰囲気も悪くなるでしょって、大きい声出して怒鳴るだけで喧嘩していいんですか?と、皆さんに迷惑じゃないと、それだったら私はすぐ辞めると、啖呵をきって辞めたんです。辞めて、さてどうしようかと、娘にも娘の旦那にも話したときにもうお茶屋さん辞めて、私は立ち食いそばをやると、そば屋さんとご縁があるので、そこから仕入れて、あとはタレは会計事務所自体の友達の顧問先でタレを作っているところがあるから、そこを紹介してもらって、立ち食いそばをやると言ったら、娘婿が、お茶屋さんを30何年もやっていて何でそんなことするの?と、お茶に関連する何かをやったほうがいいとアドバイスを貰って、そこでそういうふうに言われて、じゃあお茶をやるにはどうしようかと、そのときに私が60歳のときの記念で、セントラルファッションという青山にシルバーモデルタレント事務所があったんです。そこに行ったんです。60歳のときに何か変わったことやろうということで、そこで仲間ができたんです。

 

松本:変わったこと?

田村:というのは、いろんな人との出会いもあるだろうし、そういうところで外出たほうが何やるのも有利なんです。

 

松本:何でモデル事務所なんですか?

田村:モデル事務所でそこですれば、私の息子が高校卒業してからお笑い芸人を目指したんですね。そのときにお前だったら息子のためにもそういうところから何か縁が取れるんじゃないかなと思ったりして、息子には大学行かないんだったら、社会大学と思って、3年間は好きなようにやってみなさいと、それで駄目だったら自分で考えなさいと、3年目に息子は辞めてサラリーマンになりましたけど、そのときに私は息子のサポートができればいいかなというので、そういうところに入ってみたんですけど、そこでレッスン受けたりしました。メイクの仕方とか、

 

松本:そのときは60歳?みんな若いんですか?

田村:歳ですね。若い人はいないです。シルバータレントですから、70歳とかいます。そこで友だちになった、高円寺のスミちゃんという奥さんがいるんです。スミちゃん、「タムケン、あなたもこれから急須で淹れる時代じゃないと、大手の社長さんところ言ったって、こんな袋から粉を出して、それでお湯を入れるだけなの」と、そういうヒントをいただいたんです。そうなんだと、それだと、そういうのやったほうがいいと、そういうふうに言われて、

 

松本:モデル事務所に入ってヒントを貰ったんですか?

田村:そうですね。スミちゃんから、だからそういうことでスミちゃんもほんとは世に出たかったんです。コメンテーターとかで、マスメディアに出たい人だったから、私がマネージャーになってあげるからやろうという話をしていたんです。そういうのは平気なんです。どこでも営業しちゃうんです。使ってほしいとか。そういう打ち合わせはやりながら広島の演歌歌手の後援会長もやったりとか、だからそういうのは別に演歌歌手のPB商品を作って、宣材で使っていただくとかもやっていました。

 

松本:スミちゃんに会っていなかったらもしかしてやっていない?

田村:でもやったと思います。スミちゃんに、こういうのは?と言ったら、タムケンそうよと、それで作って、つい最近です。あることがあって、女の人はつまらないことでゴタゴタするので距離は開けたんです。だけど今度テレビで放送されるから、スミちゃん良かったら見てと連絡取ったら、見るわよと、あんたお茶送りなさいよと、送るのはいいんです。でもタダは駄目なんです。タダのものって、価値がないから、分かります?試供CDで、デビューしました。聞いてくださいと貰っても、あれは聞かないです。1,000円出してもらって、初めて聞くんですね。だから前はタダで1回は送って、スミちゃんに、またおねだりしてきたから、分かったと言って送っていないんですけど、やっぱり価値がないんです。お金を出して初めて価値が生まれるものだから、ケチではないんです。それが当たり前になっちゃうと困るんですね。

 

事務所の前で灯油をかけて焼身自殺

松本:そのPB、「もて茶って」ができるまでのストーリーを、

田村:「もて茶って」、一番初めは粉砕機、どうしたら粉砕できるだろうかと、自分でどうやって粉砕しようかと、いろいろネットで調べたりして、そしたらあるとき、農業展示会場を回りまして、そこへ行ってみたら、ほんとに自分の理想とするお茶ができたわけです。お茶が葉っぱを入れたら粉になって出てきて、その機械が兵庫県の農機具屋さんで扱っていると言うので、そこからすぐに、いくらだったかな?買って、何十万です。それを初め30万くらいしたのかな?忘れましたけど、それを買って、だけどそれでやるのには1キロするのに8時間くらいかかるんです。だから家内はもうそれは1日中つけっぱなしで、お茶を作っていました。

それじゃ駄目だというので、そこの機械メーカーの社長が、もっといいのができたよと言うので、そば粉を挽く、そば粉という機械があるんですけど、それでお茶がひけるよというので、それは新潟の会社で長岡、私はお茶を1キロ持って、長岡の会社に行ったんです。その会社のところで1キロ、ほんとに理想のお茶ができて、これならいいとすぐ欲しいと、それが135万くらいですね。それで借金して買うから、お金ないから借金して買うからと、日本政策金融公庫より融資の申し立てをしたんです。そしたら断られたんです。

というのは田村さん、今のお茶屋さんの信用じゃ無理だと、何が無理なのよ?って、私は借りたのは全部返しているじゃないって、だけど今までサラリーマンで年収800万あったのが、それがなくなっちゃっているじゃないですか?って、だから?って、その800万なくたって他で作るから大丈夫と言っても駄目なんですけど、じゃあいいです、貸してくれないんだったら、明日ここの事務所の前で灯油をかけて焼身自殺してやるから覚悟しなさいと言いましたら、ちょっと待ってくださいと、私は命がけでやっているんですと、あなたたちみたいにデスクワークで判断する人間じゃないんだからと、そしたらちょっと待ってくださいと上の人と、保証人を立ててくれと、今まで保証人を立てていたのは私の一番下の弟は接骨院をやっていて、その弟が保証人をやってくれていたんですけど、それが46のときに亡くなって困ったなと、保証人どうしようかなと思って、たまたまネットで友達になった、スカイプ友達のフジサワさんという人がいい友だちで、「まーちゃん、弟が死んで保証人が」と言ったら、「いいよ、田村さん、俺がなってやると」、

 

松本:直接会ったことは?

田村:あります。何回も家に行ったことがあるし、その奥さんはアキコちゃんと言うんだけど、アキコちゃんも57で死んじゃったんですけど、車でマーちゃんの家へ行くと、いっぱいお土産くださるような人で、今日もさっきLINEが来て話しましたけど、いい友達です。だからその友達が箱根の足柄から上野まで印鑑証明と、それから実印持ってきてくれて保証人になってくれたんです。

 

松本:それで借りられたと?

田村:もう返済しましたけど、借金ないんですけど返済しました。だから恩人なんです。だから事業報告はときどきさせていただいているんですけど、それで機械を買って稼働していたわけです。1台壊れたら困るからもう1台買おうと2台目を買って、そしたら今まで使っていた機械を下取りしろと、それで90万円で売るというので、じゃあ買うと言って90万で買ったんです。買ったはいいけど目立てが3カ月で減るんです。その目立てを直すのに上下8万円ずつ、16万円かかると、ちょっと待てと、

そんなことしていたら、途中何回も故障していて、それでも修理代出さなきゃ駄目ということで、機械がないと困るから、でも保証があるんじゃないと?でも保証はないと、結局2台使い物にならなくなって、目立てしないと、だって16万円払えば目立てしてくれるんでしょうけど、そんなのやってられないじゃないですか。

 

松本:時間短縮にはなったんですか?

田村:そうですね。3分で1キロできるので結構良かったんですけど、お店のなかで機械を動かしていて、粉だらけになって、お店のなかが、でもお客さんも承知して頑張っているねと認めてくださって、その機械で粉末をやっていました。結局そこの会社の姿勢が誠意がない、保証がない、たまたま弁護士の先生が不動産会社のときの弁護士の先生が平河町にいるので、先生こうなんだけどと、ちょっと田村君、来れば?と相談したら、保証しないと書いていないんだから保障しないと駄目だと、先生これ何とか言ってくださいと、じゃあと弁護士立てて、私もそんなことで人をいじめるの嫌だから、今までの修理代も返してもらえと、今後のこの機械もそれも先生に交渉するの失敗したなと思ったんですけど、今もまだあるんです。その機械は。粗大ごみです。50キロ以上あるんです。重いんです。それを捨てるにも捨てられないし、だからどうしようかと、そのまま眺望上は廃棄したいんですけど、実物はあるんです。

その会社を弁護士さんで示談にしてくれと言うので、じゃあ今まで払った分はどうなるんでしょう?と、10万円分くらいでいいんですか?と言ったら、そんなもんでいいの?と言われたけど、いいと、10万円貰って、それで示談したんですけど、そういう会社なんです。馬鹿な社長です。これがうまくいったら、その上の機械を買うと言っているのにそういう経営者です。あれはきっといいことないです。ウエストという会社ですけど、西さんだからウエスト。わざわざ機械持ってうちまで来たんです。2台目は。当時高速道路1,000円で来れるということで新潟から来たんです。自分の商品に対して責任を持たない。

 

松本:そういうのはどんどん終わっていっちゃいますね。

田村:でもあまり人にそういうの言うの嫌だから、それで終わりにして、もうそのままなんですけど、機械はそれでしょうがなくて、平の機械のバーンってやる機械があるんです。それを買って、アトリエというか仕事場も作って、新しく工場じゃないけど仕事場も作って、そこで粉砕していたんです。それでも間に合わないからと言うので、粉砕してくれるビジネスパートナーを探そうということで、たまたま和歌山にそういう仕事をしている会社があって、そこでお願いしてやっていたんですが、去年いっぱいで底の会社が辞めると、ちょっと待て、辞められたら困ると、そこの会社から同業者を紹介していただいて、奈良県の会社でビジネスパートナーでいついつにこういう原料行くから、これを粉砕してブレンドして作ってくださいと、今はそれでやっています。

 

小さな会社だから手間暇をかけて

松本:そこから商品をどう売り込んでいこう?とか、どういうふうに?

田村:インターネットでぐるなびを見まして、テレビでもやっていましたけど全部リストアップしておくんですね。それでそこへ電話を入れて、ぐるなびで、例えば大手は私はやりませんから、大手のお寿司屋さんはとかは、一番初めは蕎麦屋さんをやったんですけど、蕎麦屋さんは緑茶は少ないんです。だから回転寿司屋が消費量が多いんじゃないかということでお寿司屋さんを片っ端からアクセスしたんです。

 

松本:電話ですか?

田村:電話です。

 

松本:最初はどんな反応だったんですか?

田村:お茶の田村と申しますけどと、弊社の「もて茶」というのを提案したいんですけどいかがですか?と、店長さんいらっしゃいますか?と、店長が出てきて、「うちは決まったところがあるからいい」というところもあれば、ちょっと送ってみてというところもあるんです。

 

松本:決まったところがあるからいいや、というのは大体駄目ですか?

田村:駄目です。ああいう人は外からの情報は大事なんですね。これも一つの情報ですから、タダでそういう情報を貰えるわけなのに蹴っ飛ばしているわけだから、そういう人とビジネスしたくないと、

 

松本:サンプル送ってくださいというところと?

田村:そこで、それで例えばそれが終わって断られても2年後にまたリスト作ってありますから、またアプローチするんですね。そうすると決定打がある社長とお会いできたときもあるんです。社長が「そんないいものがあったら是非お願いします」と言うので、ひどいのは1年間断られて、そして1年後に社長から電話がかかってきまして、島根県のお寿司屋さんなんですけど、カマタ社長と言うんですけど電話くださって、「こんないいサンプルいただいていたのに見過ごして申し訳ございません」と、「ずっとアプローチしていたんですけど、社長さんまでこういうのは伝わらなくて残念だったんです」と、「じゃあもう一度送ってもらえる?」と言って、是非と、ただサンプルを送らないんです。そこの商品をそこのお店のロゴとか、お店とかがあれば、それをラベルにして、PB商品を作って差し上げるんです。それでそのなかにお茶を入れて、こういう商品ですとアプローチするんです。

 

松本:そういう工夫をして?

田村:工夫で、あとは印刷物は手書き、たまたま私は書道教室もやっていたので毛筆で、うまくはないんですけど心がこもっているんです。毛筆で手紙を書いて相手の心を動かしていました。

資料も全部、お茶の田村の資料も全部ファイリングして、サンプルと詰め替え用、こういうものとか、ああいうものとか、そこの例えばここら辺だとお客さんがあそこの今はなくなっちゃいましたけど寿司屋があったんですけど、そこの上のすぐ近く、今は磯村水産になりましたけど、全然駄目になって、そういうところとか、そこは飛び込みで営業したら、じゃあ持ってきてと言うので、お客さんになってもらいましたけど、あとは電話で、それから北海道、上は稚内、南は石垣、全部お客さんあるんです。

 

松本:全国に?

田村:全国にあります。ですから私が時間が空いたら電話を入れて、お茶一筋40年のお茶の田村ですと言って、お茶の在庫どうですか?と聞くと、「ちょうど良かった、頼もうと思った、送ってくれる」?と、そこでビジネスができるんです。こんないいビジネスないです。それを息子にちゃんと引き継いでいってもらいたいなということでやっていますけど、電車の待ち時間でもビジネスできるんですから、

 

松本:ポイントは大手じゃなくて、営業先がローカル、小さなところとか回転寿司とか、そういうところに絞って営業していると?

田村:そうですね。大手は例えば地元で言うと、がってん寿司とかあるんです。がってん寿司さんは埼玉なんです。熊谷が本社で、同じ埼玉だから是非良かったら検討してくださいと言うんですけど、頭が京都のお茶屋さんとお付き合いがあるから入れてくれない。何だったらこっちからお断りという感じで、

 

松本:サンプルも試してくれないんですか?

田村:それは言えばできます。だから私は今までのお客様は新店舗ができたときに入れてくださいという営業ですから、人のを取るのではなくて、大手は新店舗ができた。だから磯村水産なんかでもアキヤマさんというところへ営業に行かなきゃいけないんだけど行っている暇がないのであれなんですけど、二子玉に本社があるんです。SFPという会社で、そこもそのままになっている。営業に、つい最近は業務スーパーさん、この間、横浜の本社のほうに息子と営業に行ってきましたけど、何とかものにしようかと言うと、安物ですからそれ用の商品を作らなきゃいけないので、だからいろいろな営業はしています。上は北海道、南は沖縄、石垣にあります。

 

松本:じゃあ普通のというか、一般的な住宅街にあるお茶屋さんとの違いと言ったら、積極的に営業をしている?

田村:ただお客さんを待っている時代じゃないのと、仕入れてブレンドして販売する時代じゃないということなんです。ですから埼玉でもスーパーのテナントのなかでお茶屋さんやっているところがあるんです。大手のお茶屋さんが何十店舗も出して、きついんじゃないかと思います。やっぱりテナント料払うし人件費も払いますから、よくやっているなと、大手のところはそれこそ橋本園さんとか10何店舗クローズしましたね。大丸さんに入っている清水園さんなんかもやっていないですから、そういう時代なんです。時代に乗り遅れちゃうと、どんどんどんどん先へ行かないと、

 

すべてにときめいています

松本:独立に興味、起業に興味がある人向けに何かアドバイスがあれば、

田村:活力です。活力がない人は駄目、それとトキメキです。活力がない人は駄目、やっぱり前向きじゃない人、ネガティブな人は駄目です。

 

松本:トキメキっていいですね。

田村:すべてにときめいています。

 

松本:今でも?

田村:はい、新しい曲を覚えなくちゃとか、そういうのでときめいたり、人との今日の松本さんとの出会いもときめきです。これはときめきが必要だと思います。それから見た目ではよく皆さん70とは言われないです。あとは仕事をこれからやられる方はよく今、就職活動で就活とやっていますけど、今やいろんな学校では自分で独立してビジネスやる科もできているし、大学のキャンパスなんかでも企業作っているところもありますので、そっちのほうがメインの教育のほうがいいんじゃないかと思うんです。例えば高校でもこの間やっていましたね。高校で会社を作って、その生徒たちが、それはパソコン関係の仕事みたいですけど、普通の高校で、そういう同好会みたいなのを作って、学校で支援してやっていて、それは素晴らしいことだと思いますし、大手へ就職するとか公務員になるというのは私はそもそもそういう人間は違うんじゃないかと思うんです。

 

松本:向き不向きありますよね。

田村:向きもそうですけど、それがすべて否定できないですけど、もうそこで決まります。

 

松本:田村さんは会社員は向いていない?

田村:全然向いていないです。会社にも散々勤めましたけど、向いていないんでしょうね。きっと。出る杭は打たれますから、

 

海外に進出し「もて茶って」を一流ブランドに

松本:今後の事業展開、仕事やプライベートでの夢はありますか?

田村:今後はもっと海外に進出して海外のほうとか、それから「もて茶って」を一流ブランドに、世間でも分かるように、「もて茶って」というものをもっと知ってもらうような方向に持っていきたいと思っています。

 

松本:ありがとうございます。本日のゲストは、お茶の田村、代表 田村賢次さんでした。ありがとうございました。

田村:ありがとうございました。

 

 

お茶の田村 代表 田村賢次

1949年8月4日生まれ
東京都文京区で生まれ
東京都立足立高校定時制商業科卒業

会計事務所勤務10年位、27歳でお茶の田村を開業して 初めは、訪問販売で埼玉県草加市・八潮市・吉川市・三郷市・足立区・千葉県流山方面に訪問販売を!現在もその時のお客様はあります。

2010年に小売業が衰退して、一旦はお茶屋を辞めようと思いましたが、長女の婿が今まで、30年以上も経営していたのだから辞めてはダメと・・・

それで、お茶屋に関連した事を考えで オリジナルブランドもて茶ってを 発案して販売しました。お茶の栄養分全て摂取できる粉末茶を!販売をお寿司屋さんをターゲットに営業活動を・・・

現在では、上は北海道から下は沖縄までにお客様獲得に成功しました。国内の商社をビジネスパートナーとして、海外にももて茶ってを販売しております。主な輸出先は、シンガポール・アメリカ・オーストラリア等に。

生涯現役を目指して、毎日試行錯誤で働かせて頂いております。また、最近では新商品の開発も・・・。


お茶一筋45年!!
ようこそお茶の田村に !
http://ochanotamura.aikotoba.jp/

 

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